「京都観光」高台寺周辺の見どころ(ねね様・徳川家康の関係):その③

高台寺

私のブロクでは、読むと高台寺に行きたくなる話題をお届けしております♬

目次

本日も、高台寺周辺を3倍楽しむ為のポイントを解説していきます。
今回は、ねね様と徳川家光の関係についてお届けいたします☆彡

ねね様と徳川家康(その他に協力してくれた人達)との関係から、
高台寺創建についてお話ししていきます。

解説⇩

まず理解しやすい様に年表で表現すると

  •  1598年 豊臣秀吉死亡
  •  1599年 ねね様が大阪城から京都新城へ移住
  •  1600年 関ヶ原の戦い(徳川家康勝利)
  •  1603年 江戸幕府開始
  •  1606年 高台寺完成
  •  1614年 大阪の陣
  •  1615年 豊臣家滅亡

と、いった感じですが、年表から見ても解るように、豊臣秀吉が亡くなった後は、
徳川家康が天下を取る為に、豊臣家と徳川家は対立関係になっていきます。
しかし、なぜかねね様と徳川家康は仲が良く、
徳川家康が積極的に、豊臣秀吉の菩提を弔う(冥福を祈る)為の高台寺の創建に、多大な尽力を尽くします。

この背景には、正室であったねね様と、側室であった淀殿(よどどの)との対立関係、
また淀殿と徳川家康との対立関係があり、敵の敵は味方という事で、
ねね様と徳川家康が手を組んでいたという話があります。
また淀殿の子供(豊臣秀頼)が特に優秀であり、徳川家康は秀頼を恐れていた為に、
色々と難癖を付けて、大坂の陣で豊臣家を滅亡させたと言われています。

ちなみに、ねね様の高台寺創建に関与した人物で有名な所としては、
・徳川家康が、酒井忠世(さかいただよ)造営用掛(ぞうえいようがかり)を命じている。
(簡単に言えば、高台寺創ってこいですね)
*酒井忠世は、江戸幕府の老中(ろうじゅう)、大老(たいろう)で、ざっくり言えば、めっちゃ偉い人!笑*
・また、京都所司代(きょうとしょしだい)にも高台寺の創建を手助けするように、協力を要請している。
*京都所司代は、江戸時代初期頃に、朝廷や公家の観察や西日本の諸大名の監視をする為に、二条城の北側辺りに造られたもの。*
・豊臣秀吉の三羽烏と言われていた、福島正紀、加藤清正、浅野長政などが挙げられます☆彡
*この三人は、ねね様が豊臣秀吉との間には子供が生まれませんでしたが、我が子の様に可愛がって世話をしていたとの事で、高台寺の創建にあたって、資金や木材の提供など、惜しまず協力していたと言われています☆彡*

ここからは、珍しく私の雑談です。笑
総括すると、ねね様は非常に賢かったと思っています。そして、人望も厚く、先見の明にも優れていた。
豊臣秀吉と結婚した事、織田信長との関係、可愛がっていた部下の成長、豊臣秀吉が亡くなった後すぐ身を引いている所、悲願であった高台寺の創建の為に、徳川家康と友好を結んだり、淀殿との関係(対立していたとの話が有名ですが、実は、そうではなく、よく連絡を取ったり、親しくしていたとの話もあります。)を上手く利用していたのではないか?と考えています。

珍しく解説に気合が入ってしまったので、最後は綺麗な写真で心を落ち着かせて〆たいと思います。
こちらは、高台寺にある竹林で、西の嵐山、東の高台寺と言われるほど有名なものです。綺麗ですね☆彡

それでは、また!

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 萩工房さんこんにちは!

    今日は 解説 すごく 気合が入ってましたね!
    私もねねはすごく好きなキャラクターです。

    今日は社内で 萩工房さんの解説のことで話題が 持ちきりでした!

    次の更新 早くも 待ちきれません!

    • よっしーさんへ。
      引き続きコメントありがとうございます。
      すみません。笑 なんだか気合の入った解説となってしまいまして。笑
      つい気持ちが入ってしまいました☆彡
      私のブログは、極力皆様に解りやすく、難しい事はいいから、簡潔に、簡単に教えてほしいと思われる方が、
      さらっと読めるように、内容や、文章の量なども考えている次第です。
      社内で私の解説について話題が持ちきりになるなんて、素敵な職場ですね☆彡
      頑張って記事の更新していきますので、皆様で楽しんで頂ければと思います。
      よろしくお願いいたします。

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