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本日も、清水寺を3倍楽しむ為のポイントを解説していきます!
今回は、清水寺と坂上田村麻呂の関係をお届けいたします☆彡
今回は、その⑧の続きです。
阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)と坂上田村麻呂の関係は解ったけど、
ではなぜ清水寺と坂上田村麻呂?という疑問が出てきます。
これについて解説を行っていきます☆彡
前回音羽の滝についてお話しましたが、清水寺はそもそも音羽山の中にあります。
街の中から入ってくるので気づいていない人も多いと思いますが、よく見渡すといつの間にか山の中にいます。
時は奈良時代の末まで遡ります。
当時、結婚をしていて、奥さんがいた坂上田村麻呂は、奥さんが妊娠した事により、この音羽山へ出向く事になります。
その時代、妊娠をしても流産する事が多かったらしく、迷信として「鹿の胎児を妊婦に食べさせると無事に子供が産まれる」という噂が囁かれていました。
その鹿を狩るために音羽山へ坂上田村麻呂がやって来ました。鹿を狩っていた坂上田村麻呂は、偶然、清水寺の延鎮(えんちん)に出会います。 *ここで延鎮登場です☆彡清水寺創った人ですね。*
延鎮は坂上田村麻呂にここで何をしているのか?問います。
坂上田村麻呂
「実はですね、嫁が妊娠しまして。でも流産流行ってるじゃないですか?なので、鹿を狩っているんですよ。胎児を食べさせたらいいと聴きまして・・・」
延鎮
「貴公は自分の子供が産まれて欲しいが為に、他の者の子供を犠牲にするのか?言語道断である!そもそもそんな事をしなくても、うちの千手観音様にお祈りすれば子供は産まれる!」
と、その話に感銘を受けた坂上田村麻呂は、以後、この清水寺の発展の為に、寄進や寄付をする事になります。
当時の清水寺はとても小さいお寺だったそうで、今の清水寺が出来たのも坂上田村麻呂のおかげだと言われています。
これで阿弖流為、母禮の石碑から坂上田村麻呂、清水寺が繋がりましたね☆彡
それでは、また!
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