パワースポット貴船神社と上賀茂神社の紛争を徹底解説「京都観光」

貴船神社、京都観光

私のブログでは、読者の皆様に京都観光を楽しんで頂けるように、お役に立てる情報を発信しております。

目次

本日は、みんな大好き貴船神社を京都観光マニアの私が徹底解説いたします。
今回は貴船神社と上賀茂神社の紛争についてお届けいたします☆彡

あまり皆さんご存じではないと思いますが、貴船神社と上賀茂神社は仲が良くありません。
この貴船神社と上賀茂神社の紛争について解りやすく解説していきたいと思います。

まず地図上でいうと貴船神社も上賀茂神社も京都の北側に位置しています。
上賀茂神社の方がだいぶ京都市街よりで、大徳寺の少し北側に位置しており、
貴船神社は京都市街よりだいぶ離れた山側に位置しております。
前回紹介したお話で、水源を探して玉依姫命が川を上って来てお社を建てたぐらい山奥に位置しています。

さて、この貴船神社ですが、実は創建がいつかははっきりしていません。
第18代・反正天皇(はんぜいてんのう)の時代(406年~410年)に創建されたのでは?
と考えられていたりします。
飛鳥時代(666年)に社殿が造替されたと記録はあるそうです。
(よって飛鳥時代以前から祀られていたと言われています。)
818年に「貴布禰神・きふねしん」と記され大社に列せられ、
従五位下(じゅごいげ・日本の位階および神階における位のひとつ。
正五位の下、正六位の上に位する。)の神階を授けられます。
文献ではこれが初登場になります。

ここから貴船神社と上賀茂神社の紛争が始まります!
解説⇩

それから時は流れ、平安時代の末期頃(1017年以前)に、貴船神社は上賀茂神社の摂社として組み入れられます。
この時に祭祀権(さいしけん・仏壇や位牌、神棚や墳墓などを管理し、年忌法要などを含めた祖先の祭祀を営むべき責任と権限)や社地を失う事となります。

さらに時は流れ、南北朝時代(1372年)に、貴船神社と上賀茂神社との間に境界をめぐる争いが起きます。
その頃、貴船神社が破却されたり、神宝が奪われるなどの事件が相次ぎました。

安土桃山時代(1585年)には、上賀茂神社からの離脱運動が始まります。

江戸時代(1616年)には、貴船神社が社田の朱印を巡って江戸幕府に訴えを起こしましたが、
結局1664年に貴船神社が上賀茂神社の末社となる判決が出て、完敗しました。
この訴訟の代表となって交渉を進めた貴船神社の社人:舌弾正(ぜつだんじょう)は結果に発狂し、
他2人と共に切腹をしたという悲惨な結末を迎えています。

色々ありましたが、明治時代(1870年)に勅祭社(ちょくさいしゃ)になり、
1871年に上賀茂神社より独立します。
同年、官国幣社(かんこくへいしゃ)の制により、官幣中社に指定され「貴船神社」と改称しました。
やっとここで現在の貴船神社となり、現在に至ります。

ちなみにそんなこんなで紛争があった双方ですが、当時の名残で紋様は同じ双葉葵を使用しています。
(下の写真の右上のマークの事です。)

以上、あまり知られていない貴船神社と上賀茂神社の紛争について解りやすく解説させて頂きました。
ロシア、ウクライナ問題やパレスチナ問題が一刻も早く解決する事を祈らんばかりです。

それでは、また!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする


reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次